公共交通機関を利用すると、車椅子だとわかるとものすごく丁寧にそれはそれは丁寧に、丁重に扱われます。
捻くれ者の私は、これがどうも苦手でなりません。特に私の場合は、駅で手伝ってもらう必要は全くなく、むしろ放置いただいける方が助かるユーザーです。もちろん、緊急停車したときには、自分で何とかできる方法をきちんと考えていますし、緊急停止した時のために大体気を張って利用しています。なので、大抵急停止した時、私は余裕だけど、周りの人が私の膝の上に倒れ込んできたり、頭を殴打されたり、、、みたいなことがよく起こります。これはね、仕方ない。
ですが、駅員によっては、トイレまでついてこられたり、新幹線などは、お土産物やさんにまでついてこられたりします。
正直なところ、そこまでしてほしくないですし、私にもプライベートな時間と場があるので、手伝いもいらないのに、行き先を無理やり聞かれたり、大声で「道を開けて下さーーーい」と言われたり、構内放送で降車駅をアナウンスされることにとても抵抗があります。なぜ、障害者だけ、行先を公にしないといけないのか。
何かあっては困るという観点からの、過剰なサービスは、日本の文化に寄るところが大きいし、障害者は守らなければいけない存在という、過保護な観点からの考えに思える。これは私の勝手な考えですが、きちんと相手と話ができ、スマートに行動し、一人でシャキシャキ行動している障害者はよっぽど向こうに落ち度がない限り、責任なんて求めないのではと思っています。
ですが、日本というお国柄、社会的な目を気にして、「何かあったとき」を気にしすぎる。でもよく考えると、何かあるのは障害者も健常者もいっしょ。命の重みは一緒です。なぜ、障害者だけ、取り沙汰されるのか。お客様の安全のため、は言い換えると「そちら側の安心のため」に思える。
健常者の安心のために障害者の行動が制限されたり、過剰な手伝いを我慢して受け入れ、ニコニコと笑顔で振る舞う行為は、私は何かおかしいと感じる。お手伝いは強要されてするものでも、受け入れるものでもない。相手を尊重することも必要だと思う。もっとも、駅のアナウンスなんかよりも、もっともっと手伝ってもらいたいことはある。例えば、広い改札がひとつしかない駅で、交通整理をし、優先してくれるとか。大体いつも人の流れが切れるのを待つしかないのです。駅員は、優先であり、専用ではないからと、ボーッと見てらっしゃることが多い。そこはやっぱり配慮して欲しいなと思います。
だからこそ、きちんと障害者や相手と話し合い、何が必要で何が必要ではないかのコンセンサスを取る必要があるように思う。そのためには、健常者はもとより、障害者も、「障害教育」を受ける必要があると思う。自分の限界を知り、安全に暮らすためののスキルを身につけ、アピールする必要はあると思う。
日本人は、配慮と特別扱いを混同している人が多い。背の低い人に、台を提供して同じ高さにのは、特別扱いではなく、配慮。その配慮が他の人の土台より優位になってしまったとき、初めてそれが特別扱いとなるように思う。その辺り、きちんと区別して生活したいです。